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カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ

カール・ディタース・フォン・ディッタースドルフ(Carl(Karl) Ditters Baron von Dittersdorf, 1739年11月2日 - 1799年10月24日)はハイドンやモーツァルトと同時代のウィーンに生れ、ボヘミア・ノイホーフ(チェコ)で没した作曲家でヴァイオリン演奏家。

もとカール・ディタース(Carl Ditters)と称したが、のちに貴族となり所領風に「ディッタースドルフ男爵」を称した。
カール・ディタースの父はカール6世(在位:1711年 - 1740年)の下で宮廷劇場の衣装デザイナー(刺繍職人)としての地位を得ていた。息子カールの音楽への興味に対して身近な音楽家たちを教師に頼み、息子は期待通りの成長をした。更に、早くからヒルトブルクハウゼン公(1702-1787 神聖ローマ帝国の元帥で数々の戦果をあげ皇帝に優遇される)に見出され特別の教育を受けた。
1761年(22歳) ウィーンの宮廷オペラ劇場管弦楽団のメンバーとなる。25歳年長のグルックが1752年から楽長をしていた。
当時のウィーンでの最高の楽団はヒルトブルクハウゼン公(Prince Joseph Friedrich von Sachsen-Hildburghausen, 1702年 - 1787年)の楽団で、アウアースペルク邸(Palais Auersperg 現存)では劇場の休みである毎週金曜日の夜に、演奏が行われていた。
1763年(24歳) グルックと共にイタリアを旅行。
1765年(26歳)から1769年(30歳) ミヒャエル・ハイドンの跡を継ぎ、ハンガリーのグロースヴァルダイン司教の楽長を務める。
1770年(31歳) ブレスラウの領主司教もつとめた有名なシレジア貴族・シャフゴチ(Schaffgotsch)伯爵家がパトロンとなる。ローマ教皇アレクサンデル3世より黄金拍車章を授与される。
オーストリア領シレジアのヨハニスベルク(ヨハネスベルク)城 Johannisberg (現チェコ Jánský Vrch [1] [2] [3])でシャフゴチ家に仕える。
この城は現在チェコ・シレジア地方のヤヴォルニーク(Javorník, Jauernig [4] [5])近郊にある。
1772年(33歳) マリア・テレジアによって貴族に列せられた事により、フォン・ディッタースドルフという名が付け加えられた。
1786年(47歳) 皇帝の命令でオペラ『医師と薬剤師』を作曲。ケルトナー・トーア劇場で1788年初演され大成功をおさめ、当時モーツァルトの栄光をすっかり奪ったと伝えられる。
1795年(56歳) パトロンであった領主司教シャフゴチ伯爵の死後、かろうじて生活が可能な年金を受けるようになる。その後、関節炎と貧しさの中で、イグナーツ・フォン・シュティルフリート男爵からボヘミアの領地ロート・ロータ Roth-Lhota(現在のチェコの風光明媚で美しい城のあるチェルヴェナー・ルホタ Červená Lhota)の住居を提供され、残りの人生をそこで家族と共に生活。
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1799年10月24日(60歳) ロート・ロータの近くにあるノイホーフ (Neuhof) の、ノイホーフ城(Schloß Neuhof)にて逝去(現チェコのノヴィー・ドヴール Nový Dvůr)。

コントラバス奏者にとっては数少ないコントラバスの為の協奏曲を自分のレパートリーに加える事が出来るので有り難い事であり、ディッタースドルフなる人物はもしや、コントラバス奏者だったかと誤解されるかもしれないが、実際はブルグ劇場で定期演奏会が開催されていたほどのヴァイオリン演奏の巨匠であった。当然ヴァイオリン協奏曲も多数作曲している。彼の作品は好評に迎えられ1760年代初期にはホフマン(Leopold Hoffmann, 1730年? - 1793年)やヨセフ・ハイドン(1732年 - 1809年)やヴァンハル(Johann Baptist Vanhall, 1739年 - 1813年)らと並んでウィーンでの楽壇の指導的な立場にあった。声楽曲特にオペラ、オペレッタ、ジングシュピールについてはウィーンばかりでなく広く大衆に普及した。晩年は殆ど見捨てられたようになり、出版社からは出版を断られ、自分の時代が去った事を自覚していた。死亡の年 1799年に自叙伝を書いた。

作品
コントラバスと管弦楽の為の協奏曲 ホ長調
ヴィオラ・コントラバスと管弦楽の為の協奏曲 ニ長調
フルート協奏曲 ホ短調
オラトリオ
オペラ『医師と薬剤師』
ハープ協奏曲 イ長調

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2009年01月26日 17:55に投稿されたエントリーのページです。

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